中目黒3

目黒元富士跡

江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が造られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近な所に小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。

マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重之「名所江戸百景」に「目黒元富士」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。

元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社へ移されました。

富士信仰が広まった江戸後期、手軽に富士登山ができるよう各地に「ミニ富士」が作られました。高さ12mの元富士もその一つ。山頂からは本物の富士山も望め、大勢の人で賑わった。

関東の冨士見100景

富士山の見えるまちづくり

地点名 東京冨士見坂

東京冨士見坂は以下の通りで、青葉台地区がこの坂です。

目黒駅周辺
青葉台地区
大岡山地区
田園調布周辺
瀬田・岡本地区
善福寺地区
日暮里富士見坂

中目黒2

ヒルサイドテラスのクリスマス・カンパニー。

30年前に、この近所に住んでいた時からあります。

旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎によって、大正8年(1919)に建てられました。

宅地北側に母屋が立ち、西に土蔵、東に庭門や附属屋(車庫)があります。

このうち、母屋、土蔵及び宅地が重要文化財です。

地蔵・道標

地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることの他に、道標になることもあります。

この地蔵尊は、文西元年(1818)の造立で、その台座正面には「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂又は暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡った後、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。

江戸時代には、人家もまばらな、寂しい道で、旅人はこの道標を見て安心したことでしょう。

明治時代になっても、猿楽町には4ヘクタール以上の養豚場があったように、農業が行われていたのです。