信弘山 本念寺(日蓮宗)
太田南畝の墓
南畝の生まれは牛込御徒町で、終焉の地は神田駿河台です。正ねん寛延2年~没年文政6年(1749~1823)。17歳で幕府に出仕以後、能吏として活躍。一方19歳で「寝惚先生文集」を著し、文名を高め、以来多くの作品にみられる軽妙、洒脱な筆法によって町人文学の中心的存在となった。さらに狂歌の流行を見るに及び、彼の狂歌号(蜀山人(四方赤良)」の名声が高まりました。本寺に眠る南畝の墓碑は「南畝太田先生之墓」とあるのみです。彼は一時、小日向金剛寺坂付近に住み、文京区にゆかりの深い文化人であるだけでなく、狂歌界にあって指導的役割を果たした文人として価値ある史跡です。
「行き過ぎて 七十五年くいつぶし 限り知らぬ天地の恩」(辞世)
ヒガンバナ(彼岸花、曼珠沙華、ヘビ花)
毒がありますが、この毒は足の裏がむくんだ時に点けると、むくみが取れると言われています。また、凶作でコメが十分に取れないとしには、彼岸花の球根をつぶして水にさらすと、食料の代わりになると言われたので、全国の畔に広がったともいわれています。また、毒が畔に穴を開けるモグラ、ネズミのを忌避したという説もあります。