ケネディー基地・カリブ海57

大航海時代以前、島には先住民としてカリブ族とアラワク族が暮らしていました。

1493年11月11日、コロンブスは第2回航海でこの島を「発見」し、11月11日が聖マルティヌスの聖名祝日(聖マルティヌスの日)であることにちなんでサン・マルティン島(スペイン語: Isla de San Martín)と名付けました。

コロンブスはこの島をスペイン領に帰するものと主張しましたが、スペインはこの島への植民を重要視しませんでした。

島は各国の船や海賊たちが水や塩の供給地として利用するようになり、「塩の島」Soualiga と呼ばれるようになりました。17世紀に入ると、フランスとオランダがこの島に着目し、フランス人たちはトリニダードとバミューダの中間に拠点を欲し、オランダ人たちはニューアムステルダムとブラジルの中間に拠点を欲しがっていたのです。

ハリケーンの多い土地なので、被害を受けた後、改修中です。

オランダ人たちは1627年から1631年にかけて島に植民を開始し、1631年には町とアムステルダム砦 (Fort Amsterdam (Sint Maarten)) を築きました。

最初に島へ奴隷を連れてきたのはスペイン人たちでしたが、その数は多くありませんでした。しかし、新たな産業としてプランテーションでタバコや綿花が栽培されるようになると、膨大な奴隷たちが移入され、労働に従事させられました。

奴隷たちは過酷な取り扱いに対してしばしば反乱を引き起こし、地主たちも無視はできなくなりました。

1848年、フランス領側で奴隷制度が廃止され、その15年後の1863年にはオランダ領側でもこれに続きました。

奴隷制度廃止後、プランテーション経営は衰退し、島の経済も後退しました。

1939年、セント・マーチン島は免税港を宣言し、経済発展に向けて進むようになりました。

1943年、アメリカ軍の基地として飛行場(のちのプリンセス・ジュリアナ国際空港)が建設され、ドイツ軍の潜水艦との戦いの上で重要な役割を果たしました。この頃には、島の南北の共通作業言語として英語が広く使われるようになりました。

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