目黒不動尊8

海福寺四脚門

海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものですが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和して、落ち着きのある景観を生み出す重要な建物として定着しました。

四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本ずつある四本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式で、この四脚門は、その細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を供える貴重なものです。

海福寺境内です。

天和二年に当時深川にあった海福寺が全焼し、梵鐘も灰燼に帰しました。時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の銘が刻まれています。裾の雲形の柔らかい線は、我が国伝統の様式に中国風の柔らか味を工夫した他に類例のない逸品です。

武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔(江戸名所図会より)

天恩山五百羅漢寺

天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には「さざい堂」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治41年(1908)ここ下目黒後へ移り、現在は浄土系単立の寺です。本堂及び回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十四年かけて自ら彫刻したものです。

目黒不動尊7

永代橋崩落事件は大変有名な事件で、歌舞伎では黙阿弥作「八万祀り望月賑」、落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ、自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。

文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑

文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12年ふりに催されたため、大変な賑わいでした。しかし、将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止されました。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落して、多くの人が墨田川に転落。多数の溺死者が発生しました。

事件後、当時永代橋に近い深川寺町にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬されました。そして百日忌に供養塔が、安政3年の50回忌に石碑が、海福寺境内に建立されました。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に、この供養塔と石碑とともに移転されました。

この事件は、後に戯作者山東京伝の「夢の浮橋」や、京伝の弟山東京山の「蜘蛛の糸巻」、滝沢馬琴之「兎園小説余禄」に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えました。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受け止め後世に伝えたかを明らかにする重要な資料です。