荏原台地3

円融寺

円融寺仁王門

仁王門は三間一戸、八脚、入母屋造、茅葺(現在は銅板葺)で、溶剤は主に欅と檜を使い、和様に唐様を取り入れた建築様式で、細部の虹梁、蟇股、懸魚などにも彫刻的装飾が多く施されています。

中央通路両脇に安置されている木造金剛力士像は、永禄2年(1559)鎌倉扇谷大蔵法眼の作と言われ、簡素な中に力強さを秘めており、「黒仁王さん」または「碑文谷の仁王さん」として親しまれ、江戸時代末期に多くの人々の信仰を集めました。

仁王門は木造金剛力士像の製作とともに建築されたものと推定され、部分的には中世的特質も残していますが、しかし寛文期(1661-1673)から元禄期にかけて様式特徴がみられることから元禄期(1688-1704)にかけての様式特徴がみられることから、現在の仁王門は近世になって大改修が行われたものと考えられます。

手前にガラスがあるので反射して見難いのですが、反射した木の上に仁王様が見えます。

円融寺

寺伝によれば円融寺は、仁寿3年(853)に慈覚大師によってこの地に開かれた天台宗法服児がその始まりです。

公安6年(1283)日蓮上人の高弟日源上人により天台宗から日蓮宗に改宗しました。この時に寺号も妙高山法華寺と改めて、以後約400年の間にわたり栄えた名刹でした。

しかし、いわゆる不受布施の協議を強く主張したため江戸幕府の弾圧を受けることとなり、元禄11年(1698)に元の天台宗に戻されました。そして天保5年(1834)に山号寺号を経王山円融寺へ改め今日に至っています。

荏原台地2

目黒区立 碑小学校

明治12年1月20日: 村社、八幡神社境内に東京府第二中学区三十七番公立学校として開設。

式亭 三馬 の墓

江戸時代後期の戯作者。

安永5年(1776)江戸浅草田原町三丁目の家主菊池茂兵衛の長男として生まれました。名は太輔。字名は久徳、通称は西宮太助、戯号に式亭三馬、遊戯堂、四季山人、本庁庵、洒落斎、たらりろう、滑稽堂、戯作舎、酔夢閣などがあります。

寛政6年(1794)19歳で処女作「天道浮世の出星操」を著し、寛政11年の「夫南北是嘘気(それくすのきこれはうそのき)侠太平記向鉢巻(きやんたいせいきむこうはちまき)」では訴えられて奉行所に召喚され軽からぬお咎めを蒙った筆禍事件は、かえって作家としての名声を確立することとなった。文化7年(1810)以降は本町2丁目(現在の日本橋室町3丁目三井別館南東角)で家業の売薬店を経営しながら、黄表紙や洒落本、更に評価の高い合巻と滑稽本に優れた作品を出版しました。「浅草観音利益仇討 雷太郎強悪物語」は合巻の嚆矢となり、滑稽本では庶民の会話を活写した「浮世風呂」屋「浮世床」が代表作です。

文政5年(1822)閏正月6日47歳で死去し、深川雲光院の寺中長源院に葬られましたが、関東大震災後正泉寺墓地に改葬されました。