千鳥ヶ淵戦没者墓苑です。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた邦人のご遺骨を納めるため、昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。
ここに納められているご遺骨は、昭和28年以降政府派遣団が収容したもの及び戦後海外から帰還した舞台や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、氏名を特定できない等の理由で、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。
御製の碑
いくさなきよを あゆみきて
おもひいづ かのかたきひを
いきしひとびと
戦なき世を 歩みきて思い出づ かの難き日を 生きし人々
正仁親王妃華子謹書
千鳥ヶ淵戦没者墓苑の森林は、近代造園学の父と呼ばれた田村剛博士の設計により、都心における洗心・安息を旨とした単純・質素を理念とし、昭和34年(1959)に新たに造営されたものです。
当時は、約5000坪(約1.6ha)の敷地に、シイやケヤキなどの高木13種、ツバキなどの灌木11種の合計1,800本が植えられましたが、その後の寄進や植樹、実生による自然繁殖などにより、現在では約4000本に達しています。植樹後約半世紀を経ることで、主に武蔵野の樹木を用いた植栽当初の樹木も大きく育ちました。
武蔵野の林とは、太古の昔には、関東平野の沿岸部の大地を広く被っていたカシとシイの混成した照葉樹林(葉がつやつやした常緑樹の林)で、林松にはヤブツバキやヒサカキ、アオキなどが茂ったうっそうとした森林であったと考えられています。
しかし、武蔵野の開墾が進み、里山として利用されることで成立したケヤキ、コナラ、クヌギ等の落葉樹を主体としたいわゆる雑木林もまた、武蔵野の森の代名詞となっています。