品川浦 舟だまり
かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため昭和37年(1962)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。
現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。早朝や夕暮れ時は独特の風情があり、撮影や写生、吟行にもおすすめです。水辺と背景の品川の古い家並み、その向こうの品川駅周辺の再開発のビル群との対比は東京を象徴する風景です。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のもの。
ここは海抜1.8m。首都直下型大地震があると危険かも。
御殿山下提婆(砲台)跡
嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4席の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにしたのです。
伊豆韮山(静岡県)の代官・江川太郎左衛門秀龍がオランダの書物を元に邦題づくりの指導に当たり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下提婆(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることができます。跡地に立つ台場小学校の敷地はこの台場の半分ほどの面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つは、灯台明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。