品川宿は、江戸開府当時目黒川を挟んできた本宿と南本宿から成り、今でも旧北本宿の地区は品川神社を総鎮守とし、南本宿の地区は荏原神社の氏子となっています。旅籠・茶店の営業には伝馬人足の負担が条件でしたが、宿場の発展に伴って北側に無許可の茶屋が軒を連ねたため、1722(享保7)年これらをまとめ「徒歩新宿」とし、幕府は改めて歩行人足の負担を条件に営業することを認めました。これに対し本来の南北の品川宿を「本宿」と呼びました。
宿場には飯盛旅籠92軒、水茶屋64軒(東海道宿村大概帳)があり、遊興の地でもあった。また、江戸庶民が訪れる寺社も多く、御殿山の桜、海晏寺の紅葉、品川浦の潮干狩りなどを楽しむ人々でにぎわう行楽地でもありました。
旧東海道に入ってすぐ右側に、かつて品川宿切手の大旅籠相模屋がありました。なまこ壁の外観が土蔵のように見えたので、「土蔵相模」の異称で呼ばれ、水戸浪士らが桜田門外の変前日ここで気勢をあげ、高杉晋作や久坂玄瑞らが横浜での外国人襲撃計画をここで練りました。
聖蹟公園(品川宿本陣跡)
東海道一番目の宿場町「品川宿」本陣跡
東海道品川宿の本陣跡。明治5年に宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となりましたが、昭和13年に公園として整備され今に至ります。明治元年(1868)の明治天皇東幸の際に行在所となったため「聖蹟公園」という名がついています。
江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えていました。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣がありましたが、中期以降は北品川宿1つだけになりました。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置しています。
園内には当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来の碑」「聖徳の碑」「御聖蹟の碑」「石井鉄太郎胸像」などの記念碑、公園入口には、土山宿から贈られた街道松があります。