高島平1

天祖神社

御祭神は天照皇大神です。創建の年代は不詳ですが、伝承によれば円墳の上に営まれた祠を期限にすると言われています。

明治2年(1869)に書かれた社寺取調下案に「西台村十社の内 一村鎮守式外新明神社」と記されているように、西台村の鎮守で江戸時代には神明神社又は神明社と呼ばれていました。天祖神社と社号が改められたのは明治6年のことです。

境内には、区内で広く信仰されていた木曽御岳山に関連する石祠や木曽御嶽塚、寛政8年(1796)に造立された神明型としては区内最古の鳥居、本殿左奥には石祠に中国の故事(鯉の滝登り、韓信の股くぐり、亀割の唐絵)が彫られた「天王さま」と呼ばれる八雲神社など、多くの石造物があります。また、明治7年に京徳観音堂付近から発掘された医師某(性器)は、農耕・子孫繁栄、咳止めの神として信仰されています。

西台の井戸掘り職人が奉納した「井戸掘り絵馬」をはじめとして、絵馬・扁額が多数保管されています。

百度石

真剣に神に相対するときは、他を顧みるいとまはありません。ひそかに参るためには、夜中を選ぶのを通例とします。絶対に人目につかずに参りおおせたら、神意に適い、ことは成就するものととの信仰があります。それほど切実な心願を籠めるために、昔から「百度詣り」が続けられてきました。その仕方には二通りあります。普通は一夜に百度詣り、境内のある場所から拝殿前前まで素足で百度往復してまいる方法。もう一つは、百日をかけて百回参る方法で、いかなる都合があっても万障繰り合わせて参らなくてはなりません。これは一日も欠かせず、代参の依頼も許されないとされています。

おしわぶきさま

「おしわぶきさま」は、男根の形をした石神様で、築造は古く天神の天降る頃(天孫降臨)と言われております。

昔は、田畑の辻や村の境、橋のたもとなどに「道祖神」として祀られて、道路の往来の安全を守り、疫病や悪神を追いはらい、五穀豊穣を願う農村の信仰として親しまれてきました。

御神体が石で作られていることから、「石神」が「せき神」、「しゃく神」と呼ばれ、それがいつしか「石(せき)」が「咳」に、「しゃく神」が「杓子」となり「しゃもじ」を奉納する風習が生まれたとされています。

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