天保飢饉の供養塔
天保の飢饉は享保・天明の両基金と並び江戸時代3大飢饉の一つに数えられています。天保4年(1833)から同7年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
幕府は、白米や銭を支給するとともに、同8年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなるものは後を絶ちませんでした。
この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が、また台座には同8年3月から11月の間になくなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。
菩提(ぼだい)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)で、仏のさとりです。菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生が菩薩です。
乗蓮寺所蔵旧藤堂家染井屋敷石造物
境内にある石造物のいくつかは、現在の豊島区駒込付近に所在していた津藩藤堂家江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていました。