京都2-47

宝筐院

南北朝時代の貞和年間(1345年 – 1350年)に夢窓疎石の高弟・黙庵周諭が臨済宗の寺として中興開山し、黙庵に帰依した室町幕府第2代将軍足利義詮によって観林寺と寺名を改められ伽藍の整備が行われるが、ほどなく寺名は善入寺に戻されました。

寺伝によれば、南朝を代表する武将の楠木正行(小楠公。楠木正成の長男)もまた黙庵に帰依しており、正行が正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現・大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、黙庵によってその首級は寺内に手厚く葬られました。

その正行の敵である足利義詮は正行の埋葬を知ると、「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現・宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したといわれる。

貞治5年(1367年)に義詮が没すると、正行の墓の隣に葬られました。

藤田精一は以上の説話は歴史的事実とは考えられないと指摘している。ただし、義詮が黙庵を崇敬していたこと、足利将軍家が楠木氏を高く評価していたことは事実で、何もないところから生じた伝説ではないであろうとの考えもあります。

第8代将軍足利義政の時代に義詮の院号である宝筐院にちなみ、寺名を宝筐院に改めています。

足利氏の庇護もあって寺は隆盛であったが、応仁の乱以後は次第に衰退していった。

大覚寺

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山。

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