トプカプ宮殿
1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年、テッサロニキも陥落、ライバルであったカラマン侯国も撃退した
1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって暗殺された。
しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった
なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している
以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという
バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した
1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した
しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった