トルコ・サントリーニ61

トプカプ宮殿からの風景

こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった

しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグが1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦い(英語版)において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった

それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった

1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴスがギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった

1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)

コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった

また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブールという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった

そして1460年、ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した

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