トルコ・サントリーニ 49

トプカプ宮殿の入り口

宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、創建当初の姿を保ち続けているわけではない。

<ドーミトリー>

1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させてオスマン帝国の新たな帝都としたメフメト2世が、1460年代頃に造営を開始し、1478年頃までに完成した。

メフメト2世がここに居を定めてからは、東ローマ帝国時代からの宮殿が「旧宮殿」と呼ばれるようになったのに対して、この宮殿は「新宮殿」と呼ばれることとなった。

<パイプルーム>

現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった

宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれた。

当初は後宮(ハレム)は旧宮殿に残されていたが、スレイマン1世のときトプカプ宮殿に移された。

ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えた。