トルコ・サントリーニ 56

トプカプ宮殿

1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた

ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる

1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島のトラキアに進出させた

これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(東ローマ内戦 (1352年 – 1357年))、1354年3月2日にガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落)、橋頭堡とした

後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった

オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた

オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた

さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った