永代橋崩落事件は大変有名な事件で、歌舞伎では黙阿弥作「八万祀り望月賑」、落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ、自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。
文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑
文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12年ふりに催されたため、大変な賑わいでした。しかし、将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止されました。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落して、多くの人が墨田川に転落。多数の溺死者が発生しました。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬されました。そして百日忌に供養塔が、安政3年の50回忌に石碑が、海福寺境内に建立されました。海福寺は明治43年(1910)に目黒区下目黒の現在地に、この供養塔と石碑とともに移転されました。
この事件は、後に戯作者山東京伝の「夢の浮橋」や、京伝の弟山東京山の「蜘蛛の糸巻」、滝沢馬琴之「兎園小説余禄」に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えました。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受け止め後世に伝えたかを明らかにする重要な資料です。