板橋志村1

1604(慶長9)年、江戸幕府は江戸日本橋を起点とする五街道を始めとして各地の幹線道路の整備を行ないました。この時、1里を36町(約3927m)に統一し、1里ごとに一里塚を築くことつぃ、塚にエノキを植え、街道にはマツやスギなどを植えて並木としました。一里塚は旅人の目印や馬子・籠の料金の目安にもなりました。一里塚そのものは、江戸幕府以前にも一部の地方には築造されていましたが、全国的なったのは1604年以降です。江戸時代の地図によると、一里塚は東京23区では18ヶ所ほどありましたが、明治以降は、交通機関の発達や道路拡張などによって大部分が消滅し、現在では北区西ヶ原一里塚と板橋区志村一里塚の2か所を残すのみです。

志村一里塚は、中山道拡張工事の際、多少位置を変えましたが、西ヶ原一里塚は、岩槻道の拡張工事にもかかわらず、昔のままの位置に現存し、街道両脇の向かい合う一対の間の距離から当時の開道の道幅を知ることができます。

一里塚は、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚で、1里(約9m)ごとに道を挟んで2基ずつ築かれました。志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。

有限会社 斉藤商店

昭和8年に中山道を拡大する際に建て替え得られました。国産の材木を用いて宮大工の手によるそうです。

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