日比谷の散策4

日比谷公園の散策です。

日比谷公園は、明治36年都市計画により誕生した日本で最初の洋風近代式公園です。江戸時代、この付近一帯は諸大名の邸地でしたが、明治にいたり練兵場として陸軍省が所管しました。明治22年(1889年)都市計画日比谷公園の設置が告示され、これに伴い用地引継ぎを受けた東京市は本田静六博士(林学)らによる講演の設計案を明治34年に採用し明治36年6月1日開園しました。

その後図書館、公会堂、音楽堂等が設置され都民の憩いの場所として親しまれるとともに広場(現在の第二花壇の位置)では数々の国家的行事が催されました。

太平洋戦争が始まると樹木が伐採されて園地は畑となり、かつ金属回収のため外柵等の撤去が行われました。戦後、公園は連合軍に撤収されましたが、昭和26年ごろから復旧を開始し、昭和36年には直径30m主柱12mの大噴水が完成しました。

これは日比谷公園サービスセンターです。

撮影した前の日の2019年1月26日に、全豪オープンで大阪なおみが優勝しました。

日比谷公園のある土地は、入り江を埋め立てた低地でした。文明開化の都市生活の中で、中心的な位置に公園が必要とされ、東京市区改正設計により、明治36年に日比谷公園が生まれました。

まだ誰も「西洋式公園」を知らない時代に、本田静六案に収れんされるまで、様々な設計案が提出されましたが、決定に至りませんでした。

「本格的な西洋式の本多案」に仕上がるまでの過程では、軍医総監の石黒や園芸花卉が専門の福羽逸人などの協力を得ています。

この設計案の形式は林苑風で、ドイツの平地林を生かしたような公園デザインとなっています。一部には在来の日本庭園の手法も加えられ、総合的近代公園としてまとめられました。

ペリカン噴水は、2羽のペリカンのくちばしから水が落ちる洋風の装飾噴水です。

今から3~5千万年前の植物が、推定に運ばれ、埋没された後、珪酸質の液が染み込んだものを珪化木と言います。北九州の炭田では、炭層中に珪化木が含まれ、これを松石または松炭と呼んでいます。この写真は、昭和初期、福岡市外亀山炭鉱の地下300mのところから長生きのまま発見されたものの一部です。

信じ池です。