右が京橋親柱(京橋記念碑)、左がレンガ銀座の碑です。ここは京橋川を埋め立てて造った道で、高架下が今日橋跡です。日本橋を出て東海道を京都へ向かう時、最初にわたる橋なので、京橋と呼ばれるようになりました。京橋川の埋め立てで橋は無くなりましたが、今でも京橋親柱(おやばしら:京橋記念碑)があります。
1872年、銀座一帯は大火に見舞われましたが、この時新政府は、大蔵大夫井上薫(おおくらたいふ いのうえかおる)と大蔵少輔渋沢栄一(おおくらしょうゆう しぶさわえいいち)が中心となって、銀座を不燃年にしようと煉瓦街を作りました。煉瓦街の設計はイギリスの建築家ウォートルスが担当しました。
彼は銀座を直線道路で碁盤目状に区画し、メインストリートとしてパリのシャンゼリゼ通りをイメージした25間道路を構想したのですが、最終的に15間(27.3m)になりました。これが現在の中央通りで、当時の道路としては巨大でした。中央通りには石畳が敷かれ、その両側にレンガ造り2階建て洋館が建設されました。
ロンドンの町並みを手本したといい、官費で家屋を作り民間に払い下げる予定でしたが、予算を大幅に超過したために、希望者による自費建築も容認しました。銀座1~3丁目までは洋館が軒を連ねていましたが、一歩裏へ入ると土蔵家屋も多かったのです。洋館には旧住人が優先的に入居できたのですが、洋館に好ぬと病気になるという風説が広まり、入居せずによそに移った人も多かったのです。代わりに入ったのが、新聞社や雑誌syです。家屋が頑丈で重い印刷機を据え付けても問題なく、しかも新橋駅が近かったので、新聞・雑誌の発送にも便利でした。
京橋親柱の隣は、コナミのビルを建築中です。コナミ体操競技部には内村航平が所属しています。
「経綸(けいりん)」の題字は「国を治める施策」を意味して、当時の東京府知事由利公正の揮毫です。