田町3

慶応3年(1867年)、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は長州・薩摩藩が倒幕に動いているのを察知し、国内が無い線に陥ることを防ぐべく政権を調停に返上(大政奉還)しました。

大政奉還後も、権力を保持したい旧幕府と新政府側との対立は深まり、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。形成が不利と見た旧幕府の徳川慶喜は江戸へ逃げ帰り、薩摩藩を中心とした政府軍(東征軍)は武力制圧を目指して江戸に向かいます。

江戸無血開城に先立って、山岡鉄舟が単身で西郷と面会を試みました。その時に山岡が、官軍が警備する中を、大声で「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と発して闊歩しました。官軍側は、驚いて道を開け、山岡は難なく西郷と面会できました。

官軍は江戸に入るときは、襲撃されることを恐れていたそうです。この時の様子を、1867年当時実際に見ていた女性が、昭和の時代になって永六輔に、びくびくしながら入ってきたのよ。」と話して聞かせました。

そして、まさに江戸城総攻撃を目前に控えた同年3月14日、新政府の東征大総督府下参謀だった「西郷隆盛」と旧幕府の徳川家陸軍総裁だった「勝海舟」が、薩摩藩邸(別邸)のあった「この地」で話し合い(会見)を行いました。その結果、同年4月11日に江戸城が武力によらず、無血開城されることになりました。もし戦火が切手降ろされていれば150万人ともいわれる江戸の住民が危険にさらされていたと言われています。

中央に「サツシウ」と書いてある場所が、薩州(薩摩藩)の屋敷です。当時は海に面していました。

会見ノ場の展示場のあるビルです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です