丸ノ内線の東京駅から竹橋方面に向かいます。
ここは日本工業倶楽部です。
有力実業家により「工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる」ことを目的として1917年(大正6年)に創立された法人です。初代会長は三菱合資会社頭取の豊川良平で、初代理事長は三井合名会社理事長の団琢磨です。
この場所は、電話交換創始之地です。明治23年に電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、4月に東京、6月に横浜の電話交換局が設置。明治23年12月16日、横浜電話交換局と東京電話交換局の間で、電話交換業務が開始されました。
日本工業倶楽部の入っているビルです。
「Ligare(リガーレ)」のバナーがありますが、これは、「特定非営利活動法人 大だい丸まる有ゆうエリアマネジメント協会」の愛称です。ラテン語で“結ぶ”という意味で大手町・丸の内・有楽町を結ぶ、地域と人を結ぶ、人と人を結ぶ、そんな気持ちを込めて、協会の愛称としたそうです。
丸の内、大手町の辺りは、高層ビルが林立していて、マンハッタンのようです。
読売新聞東京本社の傍に将門塚があります。
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしています。平将門公は、承平天慶年間(931から946)に活躍し、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強気を挫くその性格から民衆に篤い信望がありました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、5月の神田祭の時には神事が行われる重要な場所です。
首塚の碑です。
昔、この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の矢代があり、傍らにまだ過度の首塚がありました。現在、塚の跡にある石塔婆は、徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻して現在に至っています。明治2年(1869年)~第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立しました。