大手町―将門塚2

酒井家上屋敷跡

平将門の首塚と同じ敷地にあります。江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところです。

伊達騒動とは別名、寛文事件ともいわれる事件で仙台藩伊達家のお家騒動として取り上げられるのですが、そもそもは原田甲斐という伊達家の奉行(家老)が伊達安芸を斬った、いわゆる刃傷事件なのです。

「樅の木は残った」という小説にも描かれましたが、そもそも事件のきっかけというのは万治三年(1660年)3代目仙台藩主伊達綱宗が、今風の表現でいえば素行不良 不行跡によって幕府から隠居を命じられたことに端を発しております。

仙台藩の重臣達が「俺達はもうこんな殿様には仕えてられないので、やめさせてください」という、いわば家臣達と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名によるリコ-ル運動から起きたものでした。伊達騒動とは綱宗の隠居事件がスタ-トだったのです。

綱宗の隠居に伴い息子の亀千代が4代目藩主となるのですが、そのとき亀千代がわずか2歳であったため、藩政を切り盛りする力はありませんでした。

そこで、後見となる人が必要となり、伊達政宗の一番下の息子が生きていました。それが伊達兵部宗勝であり、もう一人三代藩主綱宗のお兄さんにあたる田村宗良も適任ということでこの二人が亀千代の後見人になったわけです。

寛文5年(1665年)、領主の土地(領地)争いが、現在の登米市を治めていた伊達式部宗倫と涌谷の伊達安芸という人物の間で所領をめぐって起きました。裁定に不満をもった伊達安芸が、あろうことかそのお裁きを幕府にゆだねてしまうわけです。

そのお裁きの課程で、いろいろ政治を切り盛りしていた原田甲斐という男が伊達安芸に斬りつけた場所が、酒井雅楽頭忠清という幕府の幹部の屋敷でした。

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