豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間(1661~1680)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物です。棟札によると、延宝4年(1676)掃雲院(直孝長女)の弟で藩主直純が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌5年には完成を見ました。造営には豪徳寺第四世・天極秀道、工匠星野市左衛門尉積則らが当たった。
仏殿には江戸時代前期から日本にもたらされた黄檗宗の影響がみられます。禅宗寺院の仏殿は一般的に正面と側面の柱間数を同じとするのですが、この仏殿では柱間数が異なっています。吹き放ちの裳階(下屋)や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠が取り入れられ、特に板状の絵様肘木は中国や朝鮮の建築にはよく使われるものであり、日本ではあまり一般的ではありません。
木造大権修理菩薩倚像
木造弥勒菩薩坐像
木造釈迦如来坐像
木造阿弥陀如来坐像
木造達磨大師座像
本像五躯は、仏殿に右記の順に安置されている、胎内銘札によると延宝5年(1677)、井伊直孝の娘早雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五躯一具として作らせたものであることが分かります。
祥雲は黄檗宗の弟子で、後に本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫像した松雲元慶(1648~1710)のことです。