曹洞禅宗 海蔵寺
身禄行者(寛文11年~享保18年・1671~1733)は、食行行者ともいい、江戸庶民を中心に栄えた富士信仰の中興の祖として知られた人です。
庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定(食を絶って死ぬこと)した身禄の教えは、広く庶民の信仰を集めた、身禄行者の骨が分骨埋葬されたと言われる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられています。富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれました。
文京第六中学校卒業生の贈った「海抜21メートル」の碑です。
旧 駒込追分町(昭和40年までの町名)
昔は駒込村に属していました。元和4年(1618)御小人中間の街屋敷となりました。そして、中山道と岩槻街道(日光将軍御成道)との分かれるところなので、追分町と名付けられました。
東大農学部前の両街道の分岐点(追分)に、宝暦年間(1751~63)創業の高崎屋がありますが、その前に一里塚がありました。一里塚(日本橋から約4キロメートル)には榎が植えられ、旅人の道のりと駄賃の目安となりました。
明治2年、三ツ家町、正行寺門前を合併し、同5年旧幕府大番組屋敷、先手組屋敷跡などを併せました。