黒部立山 5

戦後の急速な経済復興は、関西地方に深刻な電力不足をもたらしました。火力発電では変動する電力需要に素早い対応ができなかったため、それを補うための水力発電の開発は、発足して間もない関西電力にとって急務でした。

昭和30年秋、社運と賭け「くろよん(黒部ダム、黒部川第四発電所)」の建設を決断しました。昭和31年7月「くろよん」建設工事が着工されました。

破砕帯との格闘、80m。零下20度C。大町トンネル開通。

昭和31年8月に開始された大町トンネルの工事は全断面掘削機等最新鋭の機材と次々と導入し、工事は順調に進んでいました。ところが、昭和32年5月1691m日り進んだ地点で「破砕帯」に遭遇。岩盤が崩れ、大量の土砂と摂氏4度の冷たい地下水がすさまじい勢いで噴出し、7月には掘削作業が中断。「くろよん建設」最大の危機が訪れたのです。

破砕帯の突破に向けて、トンネル工法の権威者の知識と経験を結集し、7ケ月にわたる苦闘の末、昭和32年12月ついに全長80mに及ぶ破砕帯を突破しました。昭和33年5月、全長5.4kmの大町トンネルが開通しました。

ダム本体工事では、ダム両岸を大量の火薬で爆破して一挙に山肌を剥ぎ取るという起死回生の大発破を実施し、工期の遅れを取り戻しました。

昭和34年2月には、ダムと発電所をつなぐ「黒部トンネル」が開通し、輸送路が確立。

完全地下式発電所の建設という世界でも例のない公示でしたが、昭和36年1月、1、2号発電機が運転を開始しました。そして、昭和38年6月人間の英知と情熱を終結した世紀の大事業「くろよん建設」は、総工費約513億円、延べ1000万の人手により、ちゃっこうから7年を経過して完成しました。

 

  • 熊谷組:大破砕帯突破、大町ルート大動脈貫通
  • 大成建設:史上初完全地下式発電所建設
  • 鹿島建設:大量骨材の安定供給を貫徹

黒部の太陽

左が当時の映写機

黒部川第4発電所は、ほとんどの施設が地下にあります。積雪、雪崩等冬季の厳しい自然条件から発電所を守るためです。

アーチ式ドーム越流型コークリート作り