文京区白山5

曹洞宗 金龍山 大圓寺

高島秋帆の墓

斉藤緑雨の墓

緑雨、1867~1904(慶応3~明治37)。三重県の人。名は賢。別号を正直太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名を成した。

かたわら、種々の新聞に関係して文筆をふるう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人です。森鴎外、幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛しました。

ほうろく地蔵

八百屋お七にちなむ地蔵尊。天和2年(1682)に起きた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた「お七」を供養するために建立されたお地蔵さまです。

寺の由来所によると、お七の罪業を救うために、熱した炮烙(ほうらく。素焼きの縁の浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされています。享保4年(1719)に、渡辺久兵衛が寄進しました。

このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治すお地蔵さまといて有名になりました。

高島秋帆の墓

秋帆、1798~1866年(寛政10~慶応2)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。阿片戦争で申告が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平)辺りで洋式砲術演習を行いました。

翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられました。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)冨士見御宝蔵番兼講式所砲術師範役を命ぜられました。

彼岸花

西善寺

5階建てです。

 

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