トルコ・サントリーニ 24

カッパドキアの遺跡と気球のツアーの車です。お客は日本人7人で、ガイドはトルコ人ですが、駐トルコ日本大使館に勤めたり、トルコ地震の時に日本人医療チームの通訳ボランティアをしていて、話はよくわかりました。

アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持つにいたった。

最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。

王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。

アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス(en)とともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。

<ブドウ畑>

彼の死後の混乱は最後には、勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。

カッパドキア人は、ポントス王ミトリダテス6世に対してローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任した(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されなかった。

ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗した。

アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって統治した。この従属的独立は紀元17年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となった。

<羊を追う犬は大きい>

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