中目黒9

右の本堂の屋根のすぐ上に、半月が出ています。

半世紀以上前に、クリスマスプレゼントとしてミザールの望遠鏡を買ってもらいました。その時の情景を思い浮かべて一句。

望遠鏡届いてすぐ見た昼の月

毎日毎日、今日こそ届くのはと待ちわび、ある日の昼にやっと望遠鏡が届きました。夜まで待ちきれず、昼の月を見ました。

かさね塚の由来

祐天上人は増上寺第三十六代の大僧生で徳川家五代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く迷走でした。

寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事績があります。

文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳が益々高まりました。大正15年、6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、五世清本延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の遺徳に浴することになりました。

爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが習わしとなっています。

この梵鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発がんし、翌享保14年に完成したものです。鐘には祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。

また、鉦の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋のボタンが陽鋳されています。