与論島・渡嘉敷島等 55

与論島から沖縄県本部に向かうフェリー

地理的にも琉球(沖縄)と近いため関係は深く、支配層代官の設置や行政区分の歴史的には奄美群島に属するが、島民の意識としては琉球(沖縄)寄りであり、大島(奄美大島)等とは差異がある。

古く1266年には琉球の英祖王統初代英祖王に朝貢したとされる

沖永良部島(当時は永良部島)と共に、14世紀には沖縄本島北部の北山王国の勢力下に入る

この時、北山王の王子、王舅(おうしゅん、オーシャン)が世之主として与論城を築き、君臨していたと伝わる

1416年に北山王国が滅ぼされると沖永良部島とも中山王国、次いで琉球王国の勢力下となった

薩摩による琉球侵攻以降は、他の奄美群島と同様の歴史を辿る

薩摩代官(与論主)の着任は大島より遅れ、1616年となった。琉球が薩摩の支配に入った後も、与論の民は琉球王と有形無形の交流を続ける

 

、黒糖の総買い上げ制が始まったのは幕末に程近い1829年であった

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