トルコ・サントリーニ 22

ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。

彼が言及したカッパドキアの部族の一つはw:en:Moschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによると、旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェク(Meshech)に結び付けられ、ここにある「マザカ」という都市はメシェクが訛ったものとされた

ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。

中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。

この分割はクセノフォンの時代以前に既になされていた。 ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、両者の区別は恒久化された。

カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。

キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域に与えられた名前である。

ストラボンは、カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。

それは カエサレア(元はマザカとして知られた)とテュアナw:en:Tyanaで、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。