高輪泉岳寺4

高輪泉岳寺4

浅野長矩公之墓です。赤穂城主浅野内匠頭長矩は、指導を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して人情に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七氏が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念を晴らすため元禄十五年(1702)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供え、成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。翌元禄一六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の対面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。

大石内蔵助良雄之墓です。

大石主税之墓です。

元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生しました。

浅野長矩公夫人(揺泉院)之墓です。外人さんも見学しています。

右が大般若経供養塔、中央が高島嘉右衛門之墓です。

高島嘉右衛門は、天保三年(1832)江戸に生まれ、幕末激動の時代、波乱に満ちた青年期を送り、39歳にして人材の育成を唱え横浜に高島学校を設立しました。明治4年、鉄道事業の必要性に着目、京浜間の鉄道敷設を図り、更に、横浜の埋め立て、北海道の炭鉱開拓と航運事業等を行いました。

明治9年に実業界を退隠の後は、呑象と号して、『高島易断』を世に出しました。