京都2-27

ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように、壬申の乱(672)で背に矢傷を負った大海人皇子(おおあまのおうじ 天武天皇)が「八瀬のかま風呂」で傷をいやしたことから、平安貴族や武家の時代を通じて「安らぎ」の郷としてながくあいされてきました。

この地には当初、明治に建てられた別荘があり、三条実美(さんじょうさねとみ)はこれを「喜鶴亭きかくてい」と名付け、直筆の命名額が当院に残されています。

「喜鶴亭」は茶室名として現在も受け継がれています。

昭和初期にかけて12000坪の敷地に東山を借景とした築庭と述べ240坪の数寄屋造りに改築されました。

建築に当たった棟梁は、京数寄屋造りの名人の中村外二、築庭は佐野藤衛門一派の作と伝えられています。

近年では囲碁本因坊や将棋名人戦の舞台にもなりました。

山門 叡山電鉄の八瀬比叡山口駅より、高野川の清流に沿い、橋を渡ると瀟洒な姿が目に入ります。

写経机に映り込む紅葉