トルコ・サントリーニ63

トプカプ宮殿

バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、1512年に即位した

セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた

東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた

1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した

このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである

スレイマン1世(1520年 – 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった

ポルトガル・マムルーク海上戦争(1505年 – 1517年)では、1507年にポルトガル海上帝国がホルムズ占領に成功

1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った