トプカプ宮殿
陥落後、シャーリアに従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた
略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた
コンスタンティノープルの征服に反対した名門チャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャ(英語版)を粛清し、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人のマフムト・パシャ(英語版)、ギリシャ人のルム・メフムト・パシャ(英語版)のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった
コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された
バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成した
また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領、1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服。東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年のクリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した
そして、15世紀後半には、レスボス(1462年)、サモス(1475年)、タソス、レムノス、プサラ(それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った
一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった
1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い(英語版)でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した