トルコ・サントリーニ72

トプカプ宮殿

1959年以降宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。

しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった

また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった

中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した

極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった

帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった

経済の混乱は17世紀まで続くこととなった

さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった