学習院大学正門です。
守衛さんに見学を申し入れたところ、自転車は入れないので、近くにおいて歩いて入りました。受付で氏名、電話番号を記入し、カードを首からぶら下げて中に入りました。
学習院は、明治10(1877)年に華族会館による私立の華族学校として設立され、のち宮内省所轄の官立学校となり、皇族・華族の子弟の教育に当たって。戦後は学校法人経営の私立学校となり、今日に及ぶ。現在地には明治41(1908)年に四谷区尾張町より移転しました。
江戸時代この辺は眺望の優れた場所の一つで、冨士見茶屋という休み茶屋があり、広重の浮世絵にも描かれています。
構内にある、高田村砂利場一帯の水田灌漑に利用された溜池は、堀部安兵衛が高田馬場仇討の後、この池で刀の血を洗ったという伝説が後年になって生まれ、「血洗いの池」と呼ばれるようになりました。
高田周辺の地誌『若葉の梢』の著者金子直徳が文化7(810)年に建てた「目にかかるときや殊更五月富士」という芭蕉の句碑や、「これより左ぞうしがや、右ほり之内」と刻んだ坂城断も残されています。
歴史的建造物として、明治41年の目白移転時の建物として、正門をはじめ、乃木が院長として起居していた旧総寮部(現乃木館)、厩舎、旧図書館、旧皇族寮、旧理科特別教場、旧中等科教場などがあります。