新清山寿福寺
「新清山観明院寿福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716~1735)中興の英主といわれる孝順大和尚の時、上の護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建て替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。門前には、相生地蔵と呼ばれ信仰されている2体の延命地蔵尊や庚申塔などが建っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688~1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。
烏森神社
目黒川
東山のこの一帯は、縄文時代の人々が生活を営んだ集落のあったところで、貝塚や竪穴住居跡が発見されています。
東山貝塚遺跡は、明治時代からその存在が知られていましたが、大正15年の区画整理作業中に多くの竪穴住居跡や縄文土器、石器などが発見され、その調査報告が下村作治郎氏によって「自然学雑誌」に紹介されました。
縄文時代中期(今から約5千年前)の住居は、直径又は一辺が4~5メートルの大きさが平均的です。平面形は円形もしくは隅が丸い方形のものが多く、中央近くに炉があります。上屋は、床から4~6本の柱を垂直に立てて桁をかけたのち、住居の周りから斜めに材を組んで頂点に棟木をのせ、茅などを葺いていました。一軒の住居には4~5人くらいが住んでいたと考えられています。
この竪穴住居は、國學院大學名誉教授・樋口清之氏の指導を受け、昭和54年6月に擬製復元したものです。