江戸時代、農作物を作っていたものは磯辺で貝や海草をとることは許されても、船を持ち網などで魚を取ることは許されませんでした。幕府は農民と猟師(のちに漁師と記すようになる)をはっきりと分けたのです。そうして時が流れ、羽田浦は幕府の政策とも絡み漁業に従事する人たちの移住で集落も大きくなりました。「新編武蔵風土記稿」によると、1644~1647(正保年間)年頃、羽田村から分かれて羽田漁師町となったときされています。
元禄時代に描かれた古地図には、既に羽田漁師町の地名が記されています。
鈴木新田の開発と穴守稲荷
江戸時代の後半に入ると、羽田村に隣接する干潟が大規模な干拓により、新田に生まれ変わりました。その一番大きな干拓地が鈴木新田と呼ばれた所で、主に農業が主体の集落地となりました。鈴木新田を開拓したのは、羽田漁師町の名主鈴木弥五右衛門です。この干潟は要島と呼ばれ、満潮時には海、干潮時に陸(干潟)になりました。新田開発にあたり、堤防を築き、幼い松の木を植樹し、新田への海水侵入を防ぎました。新田の開墾を進める中で弥五右衛門の養子常三郎が新田の繁栄を着概して稲荷社を勧請したと言います。基本的には鈴木家の私有地にある屋敷神でしたが、新田住民の進行も集めました。