羽田穴守稲荷4

穴守稲荷神社の繁栄

堤防下の広い土地の中に再建された穴守稲荷神社、周辺の住民だけでなく、大森、蒲田、川崎あたりの住民の信仰を集め、流行祠として日増しに参拝客が増加していきました。「穴森稲荷神社縁起」はその繁盛の理由として、風光明媚な景勝地にあることを記している。江戸時代に堤防上に植えられた幼い松が成長して並木を作り、房総半島を眺めることができました。また、干潟では潮干狩りもできるので、東京近郊の格好の清遊地として評価が高まりました。

これに拍車をかけたのが、1894(明治27)年ころに発見された鉱泉です。鉱泉の発見は温泉旅館をまず出現させました。温泉旅館ができると、宿泊客や参拝客に対応した土産物店、料理屋など、様々な店が次々にでき、門前町を形成しました。また、温泉旅館の増加につれて芸者置屋ができ、芸者衆もたくさん住むようになりました。これは当然、宿泊客が芸者を読んで遊びたいという需要が生じたからに違いありませんが、穴守稲荷神社は花柳界から絶大な信仰を得ていたという背景もあり、東京だけでなく関東一円から花柳界の人々の参拝が絶えませんでした。こうして、穴守稲荷神社は、今日でいえば、浅草寺周辺にも匹敵するような、賑わいを見せ始めました。

この賑わいぶりを見逃さなかったのが京浜電気鉄道でした。電車を走らせることにより、歩くか人力車に乗るしかなかった参拝客や観光客の足の便を図ることを目的として、穴守線開業へ向けて一歩を踏み出しました。