トルコ・サントリーニ70

トプカプ宮殿

スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた

一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった

しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった

スレイマンは、1566年9月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ピュロスの勝利で終わった(1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト設置)

ソコルル・メフメト・パシャは、1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、1577年に完成した

スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された

しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった

象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる