東武練馬江古田7

武蔵野稲荷神社

本殿が建っている土地は小高い塚になっており、室町時代後期の1477(文明9)年に起きた江古田・沼袋原の戦い(江古田原合戦)で太田道灌によって滅ぼされた豊島軍の死者を葬った豊島塚のひとつとの言い伝えもあります。

瓢箪塚あるいは割塚などと称されたこの塚には白狐が十数匹も棲んでいたことから、白狐塚とも呼ばれました。
明治から昭和初期にかけて、商家や事業家をはじめ、歌舞伎役者や馬主らの信仰を集め、「三の稲荷」と称する三の日の縁日が大変な人出で賑わったといいます。

戦時から戦後の混乱などにより一時荒廃したが、日の本神誠講(天理教から派生した)が引き継ぎ、1968(昭和43)年には神社本庁所属の宗教法人となっています。

1918(大正7)年造営の祭儀殿を除いた境内各施設(本殿・拝殿・鳥居・随神門)は1975(昭和50)年から5ヶ年計画の元、新たに整備されました。

ツツジなどの植栽に囲まれた細い参道を通り向けると随神門が見えてくる。
小振りで歴史も浅いのだが、なぜか非常に存在感があります。

門をくぐるとすぐ左手に、大黒様が臼造りをしているという珍しい意匠の手水鉢があります。
拝殿前の空間の雰囲気は門外とは全く異なる。非常に力に満ち溢れている印象。

武蔵大学

武蔵大学は、東武財閥の創設者初代根津嘉一郎が「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念から1922年に設立した旧制武蔵高等学校をその前身とします。