世田谷松陰神社3

松陰神社

夏越大祓式 私たちが日常生活のなかで、知らず知らずに犯してしまった罪けがれを人形(ひとがた)に託して身体を清め、心新たに生活を営むべく、大きな力を得る大切な行事が『大祓(おおはらえ)』です。名越、六月祓(みなづきのはらえ)ともいい、古代宮中で旧暦6月・12月晦日に行われました。それが民間に普及し、特に6月の大祓は盛大に行われました。

松下村塾 山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。

松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板を掛けたのが村塾の名の起こりです。

塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安静4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、更に玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年まで続きました。

松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月まで、杉家(松陰の実家)で指定を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。松下村塾で薫陶を受けた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、山形有朋、品川弥次郎、伊藤博文などです。

 

松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)

萬巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人と為るを得ん。

一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になりうるだろうか。自分の労苦をいとうものにどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。