品川の海晏寺(曹洞宗)の南、第一京浜の歩道橋を右折し、大井公園に沿って進むと、山内豊信(容堂)の墓があります。
1867(慶応3)年15代将軍慶喜に大政奉還を建議した土佐藩主
日米修好通商条約の調印に憤激した豊信は、ここ大井村の下屋敷に隠居したことがある。遺言によってこの地に葬られているが、円墳の墓碑を付属させた珍しい墓です。
山内豊信は容堂と号した。文政10年(1827)に分家の山内豊著の調子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第十五代土佐国高知藩主となり、人材を登用して反省の刷新に努めた。一方、国政についても色々と論議し、策を建てて幕末期の幕政に大きな影響を与えた。
進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還を始め幕府と調停の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなりました。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られました。
山内豊信は、福井の松平慶永、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城と並び「幕末四賢侯」といわれ、明治維新の先駆者として土佐藩の藩政刷新に努め、幕政にも大きな影響を与えました。
島津常候は島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓です。