板橋宿2

氷川神社の秋の例大祭です。

中山道板橋宿

江戸時代の五街道の一つである中山道は江戸と京結ぶを大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などを支えてきました。

板橋宿は中山道の第1番目の宿場であり、その長さは十五町四十九間(約1.7㎞)でした。天保十四年(1843)には人口二千四百四十八人、家数五百七十三軒を数え、旅籠屋、料理屋や籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれていて、石神井川に架かる板橋から現在の環状七号線辺りまでが上宿でした。

縁切榎

江戸時代には、この場所の道を挟んだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷(かかえやしき:武家・町人などが、百姓地であった土地を買い取って作った屋敷)がありました。その垣根の際には榎と槻ノ古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、円が短くなることを恐れ、その下を通らなかったと言います。

板橋宿中宿の名主であった飯田侃家(いいだかんけ)の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路が作られています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(藤見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。