板橋志村5

小豆沢神社が建っている山の麓に、にりんそうの生育地があります。

キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草で、日本各地の山野に自生します。開花期は4~5月頃(板橋では4月初旬)で、それ以外は地上から姿を消します。和名は2輪の花をつけることに由来し、1又は3輪の場合も見られますが、別種でイチリンソウ、サンリンソウもあり、また中国や韓国などにもあります。

御手洗池

御手洗池は、江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山もうでの道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め、水垢離をした禊場で、かたわらには石造りの不動尊がおまつりされていました。

ところが、明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士・大山もうでができるようになると、この禊場は利用されなくなっていき、やがて荒廃していきました。昭和37年、不動尊は福龍寺の山門脇に建立された不動堂へ奉遷されました。

近年地元の方が雑草を刈るなどの整地を行い、御手洗池を復元しました。その際、池の傍らには新たにお堂を建立し、金銅の不動尊と聖観音をおまつりしました。

この御手洗池は、福龍寺の秘仏薬師如来が出現したという伝説がある池です。また、古くはここの水が眼病に霊験があると信じられ、目を病んだ人々が訪れていたと言います。

羽田穴守稲荷4

時代が江戸から明治に変わると、明治政府は伊勢神宮を国家神道の最上位に置き、あらゆる神社をその系列のもとに再編成する取り組みを始めました。そして1872(明治5)年8月、大蔵省の通達により、地蔵堂や稲荷社などをの社寺を届け出の無いまま建立することを禁止しました。また、1876(明治9)年12月、社寺の管理事務を行う官庁である教部省通達により、鈴木家が行ったような私有地(私邸)に稲荷や仏堂を祭ったり、、周辺住民が底に参拝することを禁止するするとともに、建物を処分するように指示しました。鈴木新田の稲荷社も当然対象となるものだった。その取り締まりがどれ程厳格なものだったかは不明だが、強制的な取り壊しはなかったようで、鈴木新田の稲荷社は1884(明治17)年9月暴風雨の災害により壊れてしまう。そこで近隣の信徒たちは寄付金を集め、神社再建の許可を申請した。翌年12月、それが認められ、更に1886(明治19)年12月、「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へ改称しました。