円福寺と雲版・月待板碑
曹洞宗西台山を号し、文明11(1479)年太田道灌が川越に開創し、慶長13(1608)年にこの地へ移転しました。
かつては関東屈指の名刹、西台の大寺として知られ、慶安2(1649)年には幕府より寺領二十石の朱印地を与えられました。しかし、弘化2(1845)年の火災以降は往時の正大さを取り戻せませんでした。
ここの寺宝として雲版と月待板碑が残されています。
雲版は縦38・横35センチの青銅製で、太田道灌が当時を創建した際、茶室に掛けたものと伝えられています。元来禅家の仏具の一種ですが、その豪壮な作風には目を見張らされるものがあります。
月待板碑は浄土信仰と月待信仰とが結合したとみられる遺物で、この板碑は文明17(1485)年の明があり、弥陀一尊画像を印刻した芸術的香りの高い銘があり、弥陀一尊画像を印刻した芸術的香りの高い、都内でも有数の板碑と言われます。
孔雀のつがいを飼っています。孔雀は邪気を払う象徴として「孔雀明王」の名で仏教の信仰対象にも取り入れられました。
京徳観音堂
宗派は曹洞宗で、御本尊は聖観音座像です。
江戸時代、この近在に新義真言宗の水想山教徳寺(京徳寺)があり、観音堂はその教徳寺の持堂でした。明治5年(1872)、同寺が廃寺となると、円福寺が管理する境外堂となり、現在に至っています。
創建は不明ですが、本堂にかかる「武州豊島郡西台村教徳寺」との銘文がある鰐口が延宝3年(1675)の作であること、御本尊が江戸時代中期の作と考えることから、この頃までは遡ると考えられます。
境内の墓地には、「道用」と「性阿弥陀仏」が自身の死後の冥福を祈って延文6年(1361)7月13日に建立した宝篋印塔二基があります。