時代が江戸から明治に変わると、明治政府は伊勢神宮を国家神道の最上位に置き、あらゆる神社をその系列のもとに再編成する取り組みを始めました。そして1872(明治5)年8月、大蔵省の通達により、地蔵堂や稲荷社などをの社寺を届け出の無いまま建立することを禁止しました。また、1876(明治9)年12月、社寺の管理事務を行う官庁である教部省通達により、鈴木家が行ったような私有地(私邸)に稲荷や仏堂を祭ったり、、周辺住民が底に参拝することを禁止するするとともに、建物を処分するように指示しました。鈴木新田の稲荷社も当然対象となるものだった。その取り締まりがどれ程厳格なものだったかは不明だが、強制的な取り壊しはなかったようで、鈴木新田の稲荷社は1884(明治17)年9月暴風雨の災害により壊れてしまう。そこで近隣の信徒たちは寄付金を集め、神社再建の許可を申請した。翌年12月、それが認められ、更に1886(明治19)年12月、「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へ改称しました。