板橋志村9

熊野神社

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

伊邪那美命(いざなみのみこと)

事解之男命(ことさかのおのみこと)

御朱雀天皇の長久三年(1042)この地の豪族志村将監が紀州熊野より勧請したものと伝えられています。天喜年中八幡太郎義家が父頼義ととともに奥州追討の時武運長久の祈願をしました。康正2年(1456年)千葉隠岐守信胤が、西部に城砦を築き城内鎮守として厚く崇敬しました。社殿西側の低地は本丸と二ノ丸との間にあった空濠の跡です。

志村城跡と熊野神社

志村城は、康正二(1456)年にちば自胤が赤塚城に入場した際、一族の千葉隠岐守信胤(のぶたね)が入場して、赤塚上の前衛拠点としました。

本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ、”守に易く攻めるに難し”といわれる堅城でありましたが、大永4年(1524)に北条宇治綱に攻められて落城しました。

熊野神社は志村城二の丸にあたり、社殿は古墳上に建てられています。長久3(1042)年、志村将監が紀州から勧請したと伝えられていて、千葉自胤(よりたね)が志村城の守護神と定めました。現在の社殿は昭和32年に改築されたものです。

絵馬・扁額 付寄進札

当社所蔵の絵馬と扁額はその多くが江戸時代中期から大正期にかけて、地域住民により奉納されたもので、絵馬82枚、扁額9枚、寄進札4枚が現在奉納されています。

絵馬には、参詣図や神話図、物語図など多様な画題が見られますが、特に注目すべきは伊勢太々神楽奉奏の様子を描いた寛政7年(1795)の大絵馬です。

伊勢太々神楽とは室町時代末期から江戸時代を通して、伊勢や熱田の大神宮の御師・社家の神前で奉納された神楽です。参宮者は祈願成就と参宮の証として、この神楽奉奏の様子を絵馬に描き、地元の氏神様に奉納しました。