高島平14

徳丸ヶ原

高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原と呼ばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣(まぐさ)や肥料のための草刈り場が広がっていました。

れたものです

当地は、当初幕府の鷹場でしたが、後に鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保12年(1841)には、5月7~9日の三日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋式砲術調練が行われました。

秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭に黒塗り円錐形のトンキョ帽という兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分の徳丸図」に描かれています。

明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられて開墾が行われ、最終的に約400ヘクタールの徳丸田んぼ・赤塚たんぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。昭和40年代になると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。高島平の地名は、当地で砲術訓練を行った高島秋帆にちなんで付けら

徳丸ヶ原は、八代将軍吉宗の時代から鉄砲の試射場となり、寛政4年(1792)に幕府の正式な大筒稽古場となります。

天保11年(1840)、阿片戦争などの情報を得た秋帆は西洋砲術の採用などを幕府に建議、砲術の実力を確認するための様式調練と実射がこの地で行われました。

高島平駅