高島平12

この階段の上に赤塚城跡があります。

頂上に着きました。

武蔵千葉氏と赤塚城跡

下総の国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と(あしかがしげうじ)と関東菅亮領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正2年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は上杉家の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)に入城しました。

赤塚城本丸跡

寛正4年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。

その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590)まで勢力をふるいました。城は荒川定期に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の廓(くるわ)、梅林の部分が二の廓、そしてその西側が三の廓とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。